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2018.10.23

【研究報告】「アートはまちをすくわない?」座談会―10年後のアートを見つめて(3)

国際芸術交流展&シンポジウムの記録カタログ『アートはまちをすくわない?』国立大学法人富山大学芸術文化学部、2018年3月発行

「アートはまちをすくわない?」座談会―10年後のアートを見つめて(3)
 
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[日時・場所]
2017年12月16日(土)
14:00-16:15 重要文化財武田家住宅(富山県高岡市太田)
17:00-18:45 富山大学芸術文化学部H290教室(高岡キャンパス) 

[座談会メンバー(敬称略)]
高橋裕行:「のと里山空港アートナイト2016」キュレーター
吉田有里:アートコーディネーター、Minatomachi Art Table, Nagoya/港まちづくり協議会
西島治樹:美術家、富山大学芸術文化学部准教授
松田 愛:近現代美術史・アートマネジメント、富山大学芸術文化学部講師 

3-1. 10年後のアート

最後に、10年後のアートをキーワードに、アートやそれぞれの仕事に携わる中での、今後のヴィジョンについて話を聴いた。 

次世代が必要とするクリエイティビティを育てる

高橋:やはり多かれ少なかれ、オリンピックが終わった後に、地盤沈下というか、揺り戻しみたいなことが起きる可能性は高いと思うのと、僕らが高齢化する、団塊ジュニアが高齢化した時が、逆三角型ピラミッドになるので、非常に、下を支えるのが大変になるんですよね、若い人たちが。なので、ますます日本は厳しい運営を迫られると思うんですよ。財政的にも、経済的にも厳しいと思うんですよ。その中でアートというのはどう生き残っていくのかということだけれど、でも考えてみると、今よりももっと悲惨な時代にもアートはずっとあって、形は違えども。だから、やはりアートは残るだろうなとは思うけれど、でもやはり今とは違う形かなという気もしています。
 そういえばこの間、オリビエ・メシアンのコンサートを聴きに行ったんですよ。1945年に初演されていて、ナチスから解放されたパリで初演されたという作品ですけれど、そういう作品を聴いたんですね。そういう祈りを込めたような作品があって、そういう悲惨な状態だからこそ必要とされるアートというのがあるんだろうなとは思ったりします。
 個人的な話をすれば、僕は今のところ、さっき言った3つの、アートマーケットと、学校・アカデミズム、とエンターテインメント・広告と、どこから仕事が来ても、今の状態だったら受けます。基本的に受けようと思っていて、エンタメだからやらないとか、教育はやらないとか、あるいはアートマーケットだからやらないということはなくて、どれが来たとしてもオファーが来たらやるつもりでいるんですよ。その中で、何かしら、どれも一長一短あるので、完璧はないですよね。どれも、純粋100%アートというのは、どの場所でもできないので、お互いにできることとできないことがあって。でもその中でも、今現在、やはり教育の場というのは、自分は合っているなとは思っています。なぜだかはわからないけれど、なんとなくそう思っていて。次世代が必要とするクリエイティビティを、作品という形とはまた別のものかもしれないですけれど、そういう能力が育つといいなあと思っていて。柔軟に考えるとか。そう、「cocoiku」で言っているのは、未知の状況に接した時に、ひるまないというか、冷静に判断して一歩踏み出せる力というようなことを言ってるんですけれど。アーティストってそういう力があるなと思っていて、そういう人が増えるといいなと思うんですよ。皆が横並びで、お互いの出方を見計らっているような社会よりは、やはり出る人がこうポンと球を蹴り出すような瞬間がたくさんある社会の方がいいなと思うので、そういう人が増えるお手伝いができたらいいんじゃないかなという風に、抽象的には思いますね。

個人とは何かを問う「最後の署名性」

高橋:カタストロフみたいなものまで含めて、今のまま戦後社会が続くとは思えないというとこもあって。何かしら、大地震とかもあるかもしれないし、そういう中にあって、意味のあるアートというのかな。それは何も社会派のアートだけじゃなくて、単に美しい音楽とかでもいいんですけれど。そういうものが残っていくんじゃないかなという気がしますね。
松田:そうですね。そういう時こそ、社会派のアートに限らない、色々なアートが求められると思います。
高橋:社会派のアートというと、この間、名古屋でIAMASの三輪先生のオペラを観に行って来ました。それは17年前に初演されたオペラの再演ですけれど。そう、今やっていて、今度大阪でやるんですけれどね。その頃、サリン事件や酒鬼薔薇事件などがあって、そういうものの影響を受けてつくられた作品で、14歳の少年が、インターネットから送られてくる信号のようなものに感化されて、そこにある神を見てしまって。結局そこに入れ込んでいって、最後は身を捨てて、自分を全部データ化して、インターネットの世界に放流して、自分は死んでしまうという儀式をするんですよ。というオペラなんですけれどね。
 当時の衝撃と今の衝撃で比べると、今の方がやはり・・・17年前の方が、なんていうのかな。今はもう世の中がそれに近づいちゃっているというか、作品に近づいてきてしまっている。だからそういう事件が起きてくると、フィクションの力が弱まらざるを得ないというか、リアルが衝撃的すぎると。まあ、だからこそ逆に距離をとるというフィクションが大事なのかもしれないですけれど、なかなか虚構と現実の距離が縮まっているなあという気はします。911以降って、映画のようなことが現実で起きるようになっていて、だからその、昔はこんなことは起こんないよねというフィクションで安心できたものが、これもあり得るし、あれもあり得るし、というような世の中になってきた中で、ただ、そういう作品をつくれるのは、アートという領域があるからなので、あれは劇場というシステムがなかったら、非常に表現しづらいものになるので、社会運動をするのか、それとも、なんでしょうね。社会運動っぽくなりますよね。もし、アートというものがなければ。真剣にそういう人が救おうという運動をするとか、あるいはなんでしょうね。どういう方法があるかな。まあ、本当の宗教をつくるとかね、例えばね。そういう方法になってくるじゃない。もしアートという領域がなかったら。
松田:はい。
高橋:という意味でいくと、そういうアートがあるからこそ表現できるものというのも、まだまだたくさんあるなという風に思いますね。
 あとテクノロジーの進化でいくと、10年後というとどうなるかなあ。もっと、AIとかIoTとかね、もっと普及した時代になるわけですよね。そういう中で、人間性というのが、人間しかできないと思われていたことが疑われる時代じゃないですか、今ね。機械でもできるし、人間なしでも社会は回るというような。そういう時代にあって、人間・・・なんだろうな、主体性? 何かをつくろうとか、意欲とかそういうものって弱まらざるを得ないかもなあという気はちょっとしますね。システムとして、円滑に動くようになってくると、それに依存する生になるじゃないですか。やはり、スマホがないと、1日とても不安というような感じになってくるじゃないですか。意思をもって電話番号を覚えるというようなことはなくなるわけじゃないですか。それがどんどん進んでいくという感じはあるかなあ。自動ドアだと思って、開かない時のショックのようなものってあるじゃないですか。
松田:あります。
高橋:自動ドアのようなものがなければそんなことは起きないんだけれど。
吉田:確かに。それに自分が支配されているという。
高橋:あと、もう1つ思ったのは、アートの力の1つは個人で考えるということなので、皆が繋がる社会になってくるから、どんどんものも人も、どんどん横につながっていくという社会になった時に、最後の拠り所である個人とは何なのかというのを問う1つの・・・。近代が生んだものじゃない? アートって。the ARTって。だから、やはりそれはちょっと残り続けるのかなと思っています。そういう時代になっても、全部集合知のような時代になっても、やはり個人というのがいるんだ、あるんだと感じさせてくれるものに、そういうものに価値を持てるものの1つとして、アートは残っていくような気はしますね。
 全部横連携で、グループで何でもやりましょうとなってくるじゃないですか。今後ますますそうなると思うんですよ。分業と協働がどんどん進むと。アート自体もそういう要素が入ってくると思うけれど、やはり最後の署名性というか、この人発のようなものが残り続けるんじゃないですかね、アートにはね、という気がしますね。いかに集合的な制作をしている作家でも、やはりこの人の作品というところが最後に残るじゃないですか。そういう署名性というのは、ある意味、それをなくすと、アートじゃなくなる、逆に言うと。あのシンポジウムのスライドでも最後に若干入れていましたけれど、いわゆる完璧な日常になってしまう、日常に行き過ぎると。アートじゃないアートというようなことを言っているうちはいいんですけれど、それではアートという言葉が消え去って、ただの日常になってしまうし、ただの人間関係になってしまうという。アートという言葉をとっちゃうとね。
松田:高橋さん、そのスライドは今日つくってきていただいたスライドですか?
高橋:今日つくったというか、前回のシンポジウムでも使ったんですけれど、ありますよ。前回のプレゼンテーションの時に、最後にチラッと見せて、すごく早口で話して、あそこの議事録にも載っていましたけれど。これですね。
 いわゆる近代の作品というのは、自律していて、完結していて、完全で、作家の独創性により、非日常性が担保されているという閉じた作品【12】。いわゆる作品性、署名性というのが確保された状態が近代のアートだとして、川俣正さんがやっているようなアートは、自律性というのに対して文脈上、その場所場所で変わっちゃいますよというサイトスペシフィックを入れたり、完結性というものに対してワーク・イン・プログレスでずっと変わっていくんですよと、プロセス重視ということを言ってみたり。完全性に対して、仮説的なもので一時的なものなのでなくなってしまいます、いつまでも残り続けるんじゃなくて、これが完全な状態ですというのが確保されないということで、作家の独創性もあるけれど、協働制作によるものですよということで、完全な非日常ではなくて、日常性の延長で誰もができるようなものですよ、というようなことを言っていると。木工工作などは誰でもできるので、独創性がなくてもできますよというようなことを言っていて。これをちょっとずらしたようなことを、全部これ(閉じた作品)に対する批評的な態度のようなことをやっているんだけれど、これをあまりに延長し過ぎると、多分、「極端に開かれた作品」と勝手に書いていますけれど、完全に文脈によって決定され、始まりも終わりもなく、作品であることがわからず、クラスターなど匿名な状態で生成され、限りなく日常に近いという、アートなのか何なのかわからないものになってしまう。例えばピクシブとかね、割とそれに近いと思うんですけれど、ニコ動とか。
 そういうものは、近代のアートに対するアンチなんですけれど、でもこれはやはりアートと呼ばないだろうと僕は思うんですよ。こういう風に、ずらすことがまだ可能だが、ここまで行ってしまうと、ただの日常の営為になってしまうんじゃないか。署名性がなくなりきっちゃったアートというのは。編み物とかね、例えば。みんなやったりするじゃない。それをアートと呼ぶかというと、呼ばないじゃない。やはり何かしら近代の刻印があって、権威性かもしれないですけれど、それって。美術館に最終的に保存されるという。あるいはアートワールドが保証している権威性かもしれないですけれど。
 そういうものを振り払いきっちゃうと、アートという言葉を完璧に脱色してしまうと、そうなっちゃうだろうな。ただの行為になってしまうので、それは、よくないんじゃないかな。アートという言葉は残した方がいいんじゃないかなという風に。ということは、近代性をどこかでもつということなんですけれど【13】。
松田:「極端に開かれた作品」まで行くと、ピクシブもしくはコミュニティアートのように、作家ではない人がつくるような?
高橋:作家ではないアートになるんじゃないかな。匿名でもいいというね。名を出す必要がないという。でも繋がりはあるよと。レコメンデーションというか、お互いに評判の経済は回っているよという状態。でも署名性がない。どこまでが作品なのかもよくわからない。こんなことを考えるので、逆に言うと、日本においてこのような近代性をもつということはどういうことなのかなというのは、常に引っかかり続けるというか、輸入のものであるので。
吉田:そうですよね、浮世絵などは違いますよね。もっと・・・。
高橋:開いていた。個人主義であるとか、完全性であるとか、永遠性であるとか、独創性であるとかというものを信じられるという態度というのは、日本に元からあったものじゃないですよね。
松田:そうですよね。
高橋:でも非常に有効に社会批評として機能するので、持っておいた方がいいコマの1つだなという風に思っているんですよね。
松田:近代性? それ抜きには考えられないですね。
高橋:それ抜きには考えられないけれど、時代はさっき言ったAIやIoTなどで、だんだんこっちに向かって行っているんですけれど。どんどん個人性とか主体性が薄れていくようになっていっていると思いますけれど、システムが支配するようになっていくと。10年後、ポスト・オリンピック・・・。
松田:作家性がそれほど重要視されないコミュニティアートなど、そういうものにも今、可能性が見出されていると思うんですけれど、どうなっていくんでしょうね。やはり作家性というのは残っていくのか。
高橋:作家性の残滓は絶対残ると思う。やはり、あなたと私は違う人間ですねというところからスタートするのがアートなんじゃないかなと。同じですね、というところからスタートすると何か違う気がする。

【12】「閉じた作品/開かれた作品/極端に開かれた作品」。2016年の国際シンポジウム「アートはまちをすくわない?」における高橋裕行氏の講演スライドより抜粋。©2018 Hiroyuki Takahasi All Rights Reserved.
【13】スライドについて説明する高橋裕行氏(富山大学高岡キャンパス)。

「思考のトレーニング」としてのアート

松田:吉田さんにも聞いていいですか? 10年後と言っていますけれど、吉田さんの目指すヴィジョンについて聴かせてください。さっきおっしゃっていた、アーティストが社会の中で・・・。
吉田:職能を生かす。それは1つあるかなと思います。やはりアートや表現というものは、本質的なものなので、なくなっていかないと思います。それをどういう風に、私の立場で言うと、守ったり、広げたりしていくことができるかなと思っています。だからその、先ほどの出会い方の設計とか、わからないということ、考えていかなくなったこと、AIが出てきてもっと普及して、皆が個人個人の判断をしなくても生きていけるようになった時の、危険な感じもあるし、よい面もあると思うんですけれど、そういう意味においては、やはりアートの有効な部分というところは、きっとあるなと思っています。どのようにそれをつなぐことができるかという事を、日々色々考えながらやっていきたいなと思っています。
 地域という場所、地域というか、美術館という箱の中じゃなくて、美術館もとても重要な場所だと思っているんですけれど、やはりもう少し日常的な場面でどう表現と出会わせていくかというようなことは、どの状況になっても変わらないと思うので、地道に続けていくことが、少し役に立つ一つのことかなと思ってはいるんですけれど。
 どうなんでしょう。10年前を振り返ると、やはり、10年前というか2000年代以降を考えると、国際展が増えたり、そういう事で状況も変わってきた部分もあるでしょうし、でも芸術祭のようなものは、結構もう飽和してきて、オリンピックが終わったら、本当に減っていったり、消えていったりするんじゃないかなとは思います。
松田:残るものは残って、消えていくものは消えていくというような感じですね。
吉田:そういう時に、どのように新しい可能性や方法が出てくるかは、実践を通して追求し続けていけたらよいとは思っています。でも10年前って、iPhoneはまだなかったですか?
高橋:3がありました。
吉田:3はあった? 今回、ミュンスターはアプリがあって、iPhone仕様になっていました。Googleで場所を調べて周りました。
松田:紙のマップですか?
吉田:ですよね。10年で大きく色々なことが変わるんだなと、ミュンスターを通して実感した部分もあります。次の10年、全く違う世界が見えるんだろうなと、リアルには思ったので。もしかしたらもう、皆わざわざ足を運ばないということもあるのかもしれない。展覧会を見に行かなくても体験できる何か。アートって自分のうちで見るもので、わざわざドイツまで行って見にいくことがもう起きないかもしれないし。私は自分の目で見て体験したいですが。
西島:早い乗り物になるんじゃないですか?
吉田:早い乗り物? 全て見なくとも体験できるというようになったりして。
西島:こんな時代だけれど、まだロダンを見たいというような人はいますよね? 
吉田:それはそうです。
西島:だから10年前と今も・・・。
吉田:変わらないものもあるし、変わるものもあるし。でもわざわざ見に行くというのは大事な事かもしれません。10年経ったあとも、適応能力を見せつけるための思考のトレーニングをし続けるというのには、アートはとてもよい媒体なのではないかと思います。 

コレクティブ、美術館、大学、街それぞれの役割

吉田:この間、ベトナムのアート・コレクティブ(共同体)[註10]をつくっているグエンさんという人が名古屋に来てくれたんですけれど。政府に追われて、何度も場所を変え、解散させられている。それでも活動しているし、大学より機能しているという話をしてくれたんです。だから、強いと思います、アーティストは。状況に応じて自分たちの道をつくっていけると思うので、そういう意味では、どうなろうと適応していくとは思いますけれど。
松田:その、どのような状況にも適応していく強さ、そういう力を育むことができるのは、アートのもつ大きな可能性だと思っています。今日は教育の話が要所要所で出ましたけれど、学生だけではなくて、社会のあらゆる人々にも、そういう事を、教育を通して伝えていけたら、伝えていかなくてはいけないと、私の立場からは思います。
吉田:大学は大学でとても有効で、美術館も美術館でちゃんと機能していて、やはりそうして、現実に起こっていることとアートと接合するところで、街の中で行われていくものや、クリエイティブシティなど、そういったものが有効な部分もあって、それぞれに良さがあると思います。コレクティブの活動が、大学に行ったことと同じとは思えないので、やはりそういう意味では、アーティストが社会にいて、アートがどのような機能をもつかというようなことをずっと考え続けることは、時代や国の背景など、社会において全く文脈が違えば違うと思うので。そういう意味では、今日は日本という文脈で考えましたけれど、また10年後、誰にもわからないですけれど、希望はあると思います。
松田:はい、希望はありますね。
吉田:そういう思考のトレーニング、ずっと考え続けるということが大事なのかなと思いました。
松田:では、次の座談会は10年後に。今日は寒い中、長時間にわたり、本当にありがとうございました。最後に希望のもてるお話ができてよかったです。 

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[註10]アート・コレクティブとは、コラボレーションなど、集団で制作を行うアーティストの共同体のこと。『美術手帖』2018年4・5月号(vol.70, NO.1066)では、「ART COLLECTIVE アート・コレクティブが時代を拓く」と題する特集が組まれ、日本のアート・コレクティブの歴史と現在について、紹介されている。

[関連リンク]
【研究報告】「アートはまちをすくわない?」座談会―10年後のアートを見つめて(1)
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